良寛物語 「手毬と鉢の子」

 越後出雲崎の息子栄蔵は「名主のうちの昼あんどん」 と呼ばれていました。ある日 「女みたいな奴だ。 違うなら寺の鐘を撞いてみせろ」と言われ、本当に鐘を撞いたら叱られ、お仕置きとして蔵の中に入れられてしまいました。しかしこの蔵の中で本を読む喜びを知りました。

 栄蔵はものごころがついたころから、親の無い子、貧しい家の子にも分け隔せずに村の子供と遊んでいました。金持ちの子が威張ったり、弱い子がいじめられたり、鹿の子が殺されたりすることを見ると悲しくなるのでした。

 十八歳のとき、庄屋の跡をとるのは自分には向かないと見切りをつけ寺に入りました。修行のため越後を出て江戸から京都を巡り、備中の玉島円通寺の仙桂和尚の教えを受けました。さらに九州長崎に漂泊の旅をしながら、行く先々で子供と遊んだり、子供のために手毬を作ったりもしました。長崎では、法を破っても清国に渡りいっそうの修行ををと試みましたが、渡清は果たせませんでした。

 成人して円通寺に帰った良寛に、国仙和尚は「良寛は馬鹿のように見えて、心はひろい」と偈を与えました。やがて良寛は国上山の麗に五合庵をたてて独り住み、米がなくなると托鉢し、時には村の子供達と遊んだりしてすごしました。良寛は漢詩を作り、和歌を読み、書は名高い書家も絶賛するほどでありました。その無欲、無心の生き方は、年をとるにつれ語らずとも人を感化するものでありました。若いころから寂しさに耐える修行をし、寂しい国上の庵で孤独に耐えてきましたが、年老いた晩年は人里に下り、己の弱さを隠そうとはしませんでした。

作品紹介
 良寛物語「手毬と鉢の子」は南吉の処女出版で昭和16年に刊行されました。
 「蝶になる」「筍のために縁を切る」 などのエピソードも生かし、南吉の人間観、作風、テーマ、モチーフが、この良寛伝にふんだんに盛り込まれています。「紙鳶」の新太郎の凧にかける夢と大人絵の成長、「漂泊」での牛飼いとの出会いなどは、南吉の己を照射した創作で良寛を語ろうとするものです。

 良寛物語は好評で二万部印刷され、南吉は千三百円の原稿料を手にしました。続いて「都築弥厚伝」の依頼がありましたが病気のため果たせませんでした。没後、若い頃に書いた「大岡越前」がこの文庫の一巻に加えられました。