正坊とクロ

 軽業師が十人ほどと、年をとった黒熊と馬二頭のいる小さなサーカス団が村村を興行していました。

 サーカスの公演がはじまり、「さあ、クロ公、出番だ」となったときにクロが腹痛になりました。黒い丸薬を飲ませようとしましたが、口を開きません。正坊がいたら飲むがなあ団長はいうが、正坊は初日のはしご乗りで足をひねって、となり村の病院に入院していました。

 早速、正坊をつれてきました。正坊が「勇敢なる水平」を歌うと、クロはヒョコリと立ち上がり、すかさず丸薬を口の中へペロリと飲み込みました。こんなことがあって正坊とクロはいっそう離れられない仲良しになりました。正坊のソコヌケ将軍がクロの愛馬にまたがって団長の盗賊退治をするという舞台では、団長の恐ろしい顔に本気で正坊を助けようと正坊をくわえて見物の中を抜けて外へ飛び出すということもありました。

 小さなサーカス団は熱心に村々を回りましたが、実入りは少なくその上馬が病気で死んで大きな痛手をうけてしまいました。まもなく、朝目を覚ますと団長とお千代と正坊の三人を残して他の軽業した地は逃げ出していました。興行を続けることが出来なくなった団長は、サーカスを解散してクロを動物園に売り、正坊とお千代を町のメリヤス工場に住み込ませてもらいました。

 一方クロは動物園で毎日力の無い目で空ばかり見上げていました。すると「クロ」と呼ぶ声がし、そして「勇敢なる水平」の曲が聞こえました。クロは、サーカスでしたように歩調を取っておりの中をあるきました。正坊とお千代がはじめての定休日にクロに会いに来たのでした。

作品紹介
「正坊とクロ」は昭和4年7月、南吉が半田中学4年生の時の創作である事が彼の日記から想像できる。南吉はこの作品を「赤い鳥」に投稿し、入選した。童話ではこれが第一作目の入選となった。

 当時鈴木三重吉主宰の「赤い鳥」の編集にたずさわっていた与田準一が、 「パラフィン紙に刷られた原稿用紙に筆跡も際立った投稿があり、読み進んでいくうちにその構成の面白さと遺憾の豊かさにひきつけられて一気に読み終わり、さっそく鈴木先生の閲読を乞うた。」とある。鈴木三重吉の厳しい眼識ある評価とある程度の補修を経て、昭和6年8月号「赤い鳥」に掲載された。