ごんごろ鐘

 尼寺のごんごろ鐘が、お国のために献納されることになった。ごんごろ鐘が出征の日、老人達は別れを惜しんで、拝んでいるおばあさんもいた。青年団長の吉彦さんが、永年お友達であった鐘ともいよいよお別れだから、子供達に思う存分つかせようと言ってくれた。最後に鐘をついた吉彦さんは「西の谷も東の谷も、来たの谷も南の谷も鳴るんや。ほれあそこの村もあそこの村も鳴るんや」と謎のようなことを言った。

 これは、ごんごろ鐘を作るとき、村人だけのお金では足りず、四方の谷、向こうの村の人たちの助けを借りたので、その人たちの心からもって、それぞれの音がまじっているというのです。

 自分の体を溶かして、爆弾となってしまう鐘を供養したいという庵主さんが、線香を立て、お経を上げて供養をすますと、和太郎さんが牛車に乗せて、町の国民学校まで運びました。

 翌日、子供常会をするため尼寺へ集まり、みんなで境内の掃除をしていたら、深谷に住む人がお爺さんを乳母車にのせてやって来た。ごんごろ鐘が献納されるときいて、お別れにきたのだそうだ。鐘の出征の日を一日まちがえていたのだそうだ。

 僕達は常会でごんごろ鐘に合わせてあげることにした。お爺さんは、乳母車から手を差し出しのべて、なつかしそうにごんごろ鐘をなでていた。ごんごろ鐘は深谷で作られたというので、、このお爺さんとも深いつながりがあったわけだ。

 夜、我が荒鷲が猛爆とラジオニュースで聞いて、ごんごろ鐘もあの爆弾になるんだなと思った。

作品紹介
 岩滑光蓮寺の鐘の供養がヒントになったと思われる作品です。この鐘は岩滑新田の南、深谷の谷間で鋳られ、そこは今でも鐘鋳谷と呼ばれています。この話は、鐘を作り、これに親しんできた人々の愛借の物語です。
 原稿末尾に「十七、三、二十六」と製作日付があるように、これは太平洋戦争のときの話です。

 戦争協力の話の少ない南吉を惜しんで、最後の四〇〇字程を削って、「今はもうない、鐘のひびきがした。」と直して出版されたこともあった。