鍛冶屋の子(抄)
何時までたってもちっとも開けていかない、海岸から遠い傾いた町なんだ。
- 街路はせまい、いつまでも黒くきたない、両側にぎっしり家が並んでゐる。-
新次は鍛冶屋にのんだくれの男を父として育った少年である。母は彼が幼い時に逝った。兄があり、いい歳をしていたが、附近の子供と遊んでばかりゐた。
父は仕事をしている最中でもふらふらと出て行っては、やがて青い顔をして眼を据へて帰って来た。
- 「お父っあん」、ちと酒をひかへてくれよ、酒は毒だで!」新次は言った。
「まったく酒は毒だ、酒は苦い、けど俺はやめられん。きさま達は酒をのむ様になるなよ」と父は言った。
ふと見ると神棚の下で酒を飲んでゐる、兄馬右ェ門の姿があった。
「この野郎!」父は叫んでニヤニヤしている馬右ェ門の横面にガンとくらわせた。
「俺あ酒を止めるぞ」と言い、父は酒を飲まなくなったが、それから何処か加減が悪くて床を出られなくなった。
酒を買ってきた新次が父の枕もとに座って、「お父っあん」と呼んだ。
「酒を買って来た?新、何故酒なんか買ってきたんだ」力のない声で新次を叱ったけれど、父はきらりと涙を光らせた。
「お父っあん飲んでくれよ」新次は、そっと父の枕元を去って、仕事場へ来ると、黒い柱に顔をすりつけて泣いた。

 「鍛冶屋の子」は昭和5年4月、南吉16歳のときの作品である。
 小学校の頃から文才をのぞかせていた南吉は、大正15年4月はんだ中学校(現・半田高等学校)に入学する。そして2年生の頃から意識的に文学活動を始め、書き上げた童話や童謡、詩などをあちこちの文芸誌に投稿していく。
 南吉童話の代表作「ごんぎつね」(昭和6年10月、18歳の作)が雑誌「赤い鳥」に掲載されたのは昭和7年1月のことだったが、あの「ごんぎつね」が生まれる2年前に、南吉は「鍛冶屋の子」のような現実生活に目を向けたシビアな作品を制作していたのである。