うち

 子供の認識は、手近なものから始まる。算盤を押して這い回り、店の陳列棚や壁にぶつかって向きを変えながら自分の家の部屋を知っていく。部屋が三つに折れ曲がっていると。外の世界へは、隣の駄菓子屋へ行くことに始まり、家の周り、向い、隣へと広がり、そこに通じる道を知っていく。

 七歳ともなると、子供は自分がこの世界に永く生きてきたような気がしているが、村はずれの塩屋に用事を頼まれたりする時、角一つ曲がるごとに不安と寂しさがつのる。でも用をすませて家へ向かう足取りは軽く、住みなれた明るい家について安心する。

 幼い認識では、父も母も家も唯一絶対で、自分は世界の中心にいる。夏、海水浴に西の海岸の町に、春、花の撓に東の村へ行っても、その情景は虚ろに開かれた目の前を流れていくだけで、彼の心に位置を得ない。

 子供が八歳になったある日、店の柱時計が止まった。丈夫だったお婆さんが突然倒れた程驚いた。時計を直しにいこう外した跡に、新しい木の色を見て、子供は過去という時を知った。時計は藤車にねかされたが、子供の幼い姿のようだ。

 道は、むかし箒のような姿で、何か欠けているものを求めてさまよったとき、その跡に出来たという。時計屋に向かう親子の旅のようだ。

 時計屋は自分の家に似ているし、母に似たお母さんたちにも会う。子供は他者を知って認識は相対化し、時計を直して家に帰り着いてもそこは暗く、母の温かさも感じない。そして本当の自分はどこにと懐疑が生まれた。時計を直す旅で、父や母は唯一絶対でなく、これまで世界の中心に占めてきた自分の位置は喪われたのである。

作品紹介
「家」は昭和15年5月10日の執筆で、5月から6月にかけて「哈爾審日日新聞」に掲載された。

 南吉の自筆原稿が残っていて、 「家」という題は、子供の世界→月夜→道→幼年→家→の推敲を経て決められたようである。「家」 には「うち」とルビが付けられている。

 子供の認識の中核に子を置かずに、家を置いたのは、話に具体的なイメージを与えるし、地縁共同体に拠る思潮で南吉らしいと考える。南吉の生活童話に、自我の目覚めを扱ったものがあるが、これは認識の得方と表裏になっていると見ることが出来る。