最後の胡弓弾き

 旧正月になると 、この村の百姓で鼓や胡弓の巧い者は二人づつ組になって門附の旅に出ます。一二歳になった木之助は、胡弓を習い、鼓の松次郎と組になって、はじめて近くの町へ門附へ出ました。

 町の入口の餅屋の門から始めて、一軒一軒のき伝いに二人は胡弓と鼓を鳴らし、唄を謡ってお銭をもらっていました。昼頃になり、味噌溜の札のかかった大きな屋敷に入りました。二人はそこの主人からほめてもらい、一〇銭づつもらった上にごちそうにまでしてもらいました。

 木之助は、来る正月に胡弓を弾きに町へ行き、必ず味噌溜の看板のある門をくぐりました。木之助は胡弓がしんから好きでしたし、巧かったのです。味噌溜の主人もそれを楽しみに待っていてくれました。

 長い年月が過ぎて二人は年老い、門附は時代とともにはやらなくなって、村人も一人やめ、二人やめと遠ざかっていきました。永年の相方、松次郎もやめると言い出し、木之助は一人で門附に出かけるようになりました。味噌溜の主人もすっかり老人になりました。

 木之助は、父親が亡くなった年と自身が感冒をわずらった年の二年ほど門附をやめていましたが、家族の反対をおして味噌屋の主人に聞いてもらおうと、また町へ行きました。しかし木之助の胡弓の最後の聞き手であった味噌屋の主人は亡くなっていたのです。木之助は、仏前で亡くなった主人の供養にと一心に胡弓を弾いきました。

 帰り道、聴く人のなくなった胡弓など持っていて何になろうと、古物屋に売ってしまいました。しかし手放した瞬間から後悔し、引き返して買い戻そうとしました。ところが倍の値段をふっかけられて買い戻すこともならず、重ねて大きな失意を味わうのでした。

作品紹介
 南吉は昭和13年4月から安城高等女学校に勤め、「最後の胡弓弾き」は、昭和14年5月から「哈爾審日日新聞」にけいさいされた。これは満州国(現中国東北部)で発刊された日本語新聞で、その記者であった友人江口榛一の斡旋によるもので、この頃の南吉にとっては、創作発表の一つの場であった。この作品は、九回に分載され、その新聞の切抜きが残されている。南吉は、この作品の外に「久助君の話」、童謡、詩、さらに教え子達の詩も発表している。

 「最後の胡弓弾き」はその後書かれた「おぢいさんのランプ」など民話的童話の出発点となる作品で、南吉童話が豊かに醸成していく記念となるものであった。