牛をつないだ椿の木

 山道の傍らの椿の木に牛曳きの利助さんが牛をつないで、人力曳きの海蔵さんと一緒に清水をのみに山に入りました。帰ってくると牛が椿の葉をみんな食べてしまっていて、持ち主の地主はかんかんでした。

 「あの清水が道に近いとええだが。」海蔵さんは井戸新さんに、しんたのむねの下に井戸を掘ると三十円かかると聞き、成金の利助さんに協力を頼みましたが「みんなの井戸にどうしておれが…」と断られてしまいました。椿の木に箱をつるして喜捨を呼びかけましたが集まりません。「人はあてにならん」と、好きだったお菓子も食わずに二年かけて必要なお金をためました。

 ところが地主は、重病でしゃっくりが止まらないのに「死んでも許さぬ」と井戸を掘ることを承知してくれません。が、帰りに息子が「私の代になったら承知しましょう」と言ってくれました。

 「これはうまい」と、海蔵さんは喜んでお母さんに話しました。するとお母さんは、「お前は、自分のことばかり考えて悪い心になった」とたしなめました。海蔵さんは、地主に「息子さんの言葉から、あなたが死ぬのを待つような心になりました。」と本心を告白し、謝りました。そんな海蔵さんに感心した地主は、井戸掘りを許可し、費用の援助もしてくれました。

 海蔵さんは、日露戦争に出征し戦死しましたが、椿のかげの井戸には清水がゆたかに湧いています。

作品紹介
昭和17年5月19日の作とされています。南吉は、昭和16年12月に肝臓炎を悪化させ、翌1月には血尿にみまわれ、死を覚悟して、驚異的に創作を続けるなかで書かれた作品です。

 昭和4年の日記「若し余の作品が認められるなら、余は再びそこに生きることができる」の予見が実現できればという必死な気持ちがあったのでしょうか。

 海蔵さんの「わしはもう、思ひ残すことはないがや。こんな小さな仕事だが、人のためになることを残すことができたからのォ」という言葉には、南吉の生涯の想いが込められていると言えましょう。

 「牛をつないだ椿の木」は、南吉が亡くなって半年後(昭和18年9月)に、巽聖歌によって刊行されました。